喋らなくなった床屋
5月連休の最終日、雨が降っていて出かけられない じゃあ髪でも切るか、と 床屋に入って椅子にもたれた 「耳は出しますか?」と聞かれ「はい」と答えたきり、ずっと沈黙が続く ここのオヤジさん、ホント喋らなくなってきたな 思えばこの床屋にももう15年も通ってる 最初の頃はちょっとは世間話っぽい話をしてきていた 「近所にお住まいですか?」……「いい天気ですね」…… 確か「イチローがすごい記録作りましたね」と久々に話しかけてきたことがあったから 2004年までは何とか客と喋ろうとする意志があったわけだ(ちなみに今は2007年) でもその後はトンと話をした記憶がない ぼくだけでなく、馴染みらしい年配のお客さんたちともそうなのだ 丁寧になでつけた白髪頭の、ちょっと頑固そうな四角顔 シャンプーのうまい奥さんともう長いことここで営業している 腕は確かで、いつもきちんと整髪してくれるので贔屓にしてる 床屋さんに社交術が必要とされた時代はもう過去のものなのかなあ そういやぼくも何を聞かれてもろくすっぽ気の利いた返事なんかしなかったもんね ぼくもオヤジさんも同じ鏡を見ながら 黙々と「客」と「サービス業者」の役割をこなすことに没頭する 器用なバリカンの動きに従って伸びすぎた髪の毛が切り落とされると すぐさま神経質なハサミがちょちょちょっと毛先を整えていく 何事も「少しずつ少しずつ」がこの店の原則 だから一人の客に1時間半もかかるのだけれど仕上がりはいつもきれいだ オヤジさん、髪を整える仕事が心底好きなんだな でもって人と話すのは本当は苦手なんだな 「個人がプライバシーに踏み込まれるのを嫌がる」という時代の趨勢を鋭敏に感じて 「いい時代になったー」とばかりに無理に喋るのをやめにしたんだろう 床屋が社交場である時代が去って 喜ぶ床屋だっているさ いやいや、客であるぼくだって本当は嬉しい さして親しくもない相手と不自然な会話をしなくてすむのだから ぼくの髪型は当然覚えていて、何も喋らなくても 後は希望通りにカットしてくれる 黙りこくってしかめっ面した(ように見える)オヤジさんの頭の中で今 散髪後のぼくのイメージがホログラフィのように浮かび上がっている もうすぐぼくはそのイメージ通りに切り抜かれた「実物」になる いつかこの店が廃業する時 ぼくは、ああ遂に廃業したな、と無言で思い あのオヤジさんどうしてるかな、と無言で思い 頭の中で徐々に店とオヤジさんのイメージを薄れさせていくんだろうな そしてオヤジさんの頭の中にあったぼくのイメージとも 少しずつ、バイバイ、なんだろうな
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