ノラ猫にまつわる大変な話
ちょっと、というか、かなり長いです クロに最初にスルメをやった日から1年近くたった  ノラ猫たちが毎日部屋に出入りするようになってさすがに考え始めた いつまでもこんな調子で面倒を見きれるものではないし 里親を探してやらないと…… クロとシシは人になつかないので難しいが ファミ、レド、ソラはペットとしてもイケるのではないか 早速ネットで情報収集 むむっ、こりゃかなり敷居が高い 既に保護していて「トイレ躾済み」とか「ワクチン済み」とか条件がついてるぞ ぼくみたいなアパート住まいのエサやりさんが急に里親募集できるもんじゃないらしい まあ、慌てないで地道にやるさ いざとなればペット可のマンションに引っ越してもいいし なんて思っていた矢先、大変なことが起こってしまった 帰りを待ってくれている猫たちの中に レドがいない! いつもならファミと並んで真っ先に飛びついてくるのに 猫が姿を消す……またまたネットで情報収集すると オス猫は突然家出してしまうことがあるらしいとわかった 原因は発情期のメス探しと縄張り争い 去勢しているので前者のケースはなさそうだが後者は考えられる 近所には強そうなノラ猫がいっぱいいるからな もし本当なら悲しいけどそれはそれで仕方ない 新しい縄張りでボス猫になってくれ と思っていたら今度はクロを見かけなくなってしまった クロは今は子猫たちとは距離を置いて暮らしているが それでも2日に1度は必ず顔を出す それが丸1週間全く姿を見せないのだ これはおかしい 猫嫌いの誰かが捕まえて保健所送りした可能性がある 猫好きが多いこの界隈だがアンチ猫派も少なくない 近所には玄関にペットボトルをずらりと並べている家もあるし バケツの水をぶっかけて猫たちを追い払う人を見かけたこともある いてもたってもいられなくなった ファミだけでも助けなければ 実家の両親に電話をした 「突然で悪いけど、ほんとのほんとに困ってるから……」 断っておくがぼくは滅多に家に電話なんかしないんだよ 母親はびっくりしていたがやがて納得してくれ 父親と相談の上、わかったとの返事をくれた ありがとうございます、ありがとうございます 携帯握り締めながら何度も頭を下げましたよ そしてその週の土曜日は ぼくの人生で一番の「勝負の日」になった (大学受験やら玉砕した初恋の告白やらとは比べ物にならない) いつもは夜が更けてくると部屋から追い出すのに四苦八苦するが 逆に何とか引き留めておかなければならない 遅くまでネコジャラシで遊び、疲れ果てたファミが座布団の上で寝込むのを見届ける ぼくもとろとろ仮眠、目覚めると、おおっ5時前だ 大急ぎで着替えをしているとファミも起きてきた 背中をまあるくニュッとくねらせ、頭を軽く振ってあくびをすると もう意識がはっきりしたようで 目をキラキラさせてぼくを見上げている(また遊んでくれると思っているんだ) お外行きましょか ドアを開けるとファミも喜んでついてくる 歩き出してこちらを振り向きかけたところで ファミの脇に手を入れて高い、高ぁーい 楽しいね楽しいな、くるっと1回転ひねり そのままキャリーバッグに入れてぴしゃっとチャックを締めた 猫ってのは何てカンがいいんだろう これは遊んでもらってるんじゃない、閉じ込められたんだ 一瞬にして悟ったようで 大声で鳴きながらキャリーバッグを内側から蹴り、引っ掻き始めた ガリガリ、ダゥッドゥッ、ボン ああ、予想してはいたがやはりこうなったか 心を鬼にして早歩きで駅に向かう 誤算だったのは、土曜日の始発ってのが予想以上に混んでいたこと 天気もいいしレジャーに出かけるんだろう 辛うじて座れたがキャリーバックがモコモコ動くので隣の人はびっくり 祐天寺から伊勢原まで1時間半余り これから1時間半を持ちこたえさえすればいい 周りの迷惑なんて知ったことか! それでも渋谷に着く頃にはちょっと静かになってきた ほっ、このまま伊勢原までおとなしくしててよ ところがところがそううまくは事が進まない 東横線から井の頭線に乗り換えるために歩きだしたら途端に鳴き始めた さすが渋谷、まだ5時半だというのに人がいっぱい きっと足音や話声が恐いんだろう ミャオッ、ミャオッという甲高い声が雑踏を切り裂く しょうがないよね 初めての体験だもんね 井の頭線は混んでいて座れなかった バッグを両手で抱き締めるようにして立っていた 下北沢到着 ここから伊勢原まで1時間弱だ さあ、絶対の絶対、動じない、動じない、動じないぞ 心の中で何度も呟いたが、正直な話、この最後の1時間はほんっとにつらかった 小田急線は混んでいてしかも結構揺れる ファミはもう鳴きはしなかったが代わりにバッグから出ようとして全力でもがく どすっどすっとバッグが歪み、周りの人が顔色を変える まずいなあ、最悪だ 停車した際の乗り降りの動きもパニックのトリガーとなる 抱きかかえるようにして少しでも安心させようとしたが 電車の振動と大勢の乗客の気配を鋭敏に感じたファミはもう決死の覚悟 何が何でも脱出しようとしているんだ 疲れてちょっとほけっとしたら えっ、顔の3分の1程がバッグから突き出てるじゃないか チャックの端のほんのわずかな切れ目に鼻に差し込んで空間を押し開こうとしている 慌てて掌をべたっと押し付けて力づくでバッグの中に押し込む ミャアーというファミの鋭い抗議の鳴き声に テニスのラケットを抱えた女子中学生らしき集団がさっとおののきの表情を見せる すごいな、猫って どっかに少しでも弱そうな部分があればすばやく対策立てて強行突破を図ろうとする 頭もいいし器用だし力もある もちろん感心している場合じゃない 布のキャリーバッグはダメ、失敗、大失敗、ぼくはまぬけだ バッグを必死で押さえつつ、つらつら考えたこと ・ぼくは猫たちを保護しているつもりだったが、結果的にその行為は彼らを命の危険に晒していた ・猫たちと対等な力関係が築けていた気がしていたが、いざとなると人間の力の方が圧倒的に大きかった ・ごめんよ、ごめんよ ・野生動物ではないノラ猫は、言わば人間社会の最底辺に位置する存在だ ・人権によって守られているわけではなく、社会の「隙間」で生きている ・「隙間」で生きることは気楽で楽しい ・しかしそれも援助してくれる人間次第 ・援助してくれる人間が弱くて思慮が浅ければ、援助が凶器となって襲いかかってくる ・かと言って猫たちを保健所送りする人たちを憎む気にはなれません ・彼らには彼らの生活があるから ・猫たちが踏み荒らす庭の草花の方が猫の命より大事だっていう人も当然いる ・草花だって生きている ・業務としてノラ猫を始末する保健所の方々、お仕事御苦労様です、大変ですよね、頭が下がります ・この期に及んで日和見主義 ・ぼくはいつだって小市民として生きてきたしこれからもそうであるつもり ・いいじゃないか ・小市民として暴力に加担する ・ごめんよ、ごめんよ ・電車がこんなに揺れるものだったとは! ・ノラ猫を家猫にすることは、再底辺にいる浮浪者を「愛玩動物」に「引き上げる」こと ・「愛玩動物」になることで失う自由と様々な楽しみ、引き離される仲間 ・なぜ、まずファミを助けようとしたのか? 顔がかわいいから? なついてるから? ・ひょっとして『ソフィーの選択』問題?(注) ・いや違う、そんな深刻な葛藤なんてないまま命の重さが恣意的な裁量で決定されただけ 海老名、あと次の次の次 本厚木、次の次 愛甲石田、もうひと息 伊勢原、やった着いたぞ もう鳴こうがわめこうがこっちのものだ バッグをしっかり抱えてホームに出て改札を抜け、電話する 父親が車で迎えに来てくれたのですばやく乗り込む 発車と同時に、ファミが大声で鳴き始めた ようやく家に着いた バッグの中を覗くと、内側を引っ掻く錯乱したファミと目があった これが「ノラ猫」としての最後の姿 バッグを開けて、放す ファミは鳴き声をあげながら部屋を半周するとすぐさまカーテンの陰に隠れた 身を固くして出てこない 大丈夫だよ、ここの人たちは優しいから ファミ、これから「愛玩動物」として頑張っていこうね 夜になってファミもようやく少し落ち着いたようだ 皿に盛った猫缶に口をつけたのを見届けて、東京に戻る 戻ったら ソラとシシの姿も消えていた <後日談です> 数日後、ひょっこりクロが姿を現した まるで何事もなかったかのように 半年近くたって、レドが、駅前のマンションの入り口付近で 丸々太った姿で発見された 察するに 猫嫌いの住民の誰かが、我が物顔で歩き回るノラ猫たちに苛立ち マタタビか何かでおびきよせて捕まえたものの 保健所に連れて行く勇気はなく 駅周辺のテキトーな猫路地に彼らを捨てた、ということのようだ 辺りの地理に明るい老練なクロは戻って来られたが 他の猫たちには無理だったのだろう ファミは当初新居を嫌がって家出までしたが(ぼくが連れ戻しました) じきに慣れて居間の真ん中でお腹を出してグーグー寝るまでになった レドはどこかのエサやりさんから食事の面倒を見てもらっていたようだ 喧嘩したらしき傷跡があったが毛並みはつやつやとして健康そうだった だが甘えん坊のレドらしく ぼくを見分けると、大きな声で鳴きながら必死の面持ちで追いかけてきた 振り切ろうとしても追いかけてくる レドは2万円払ってペットタクシーで実家に運んだ ペットタクシーは快適、ファミの時も利用すれば良かった ファミはレドを覚えていず、随分威嚇したが やがてツンデレの仲になり、2匹とも家猫としてわがままいっぱいに暮らしている クロは時々ご飯をもらいにやって来る ソラとシシはいまだに見つからない、が きっとどこかの猫路地でそれなりに楽しく生きていることだろう そうあって欲しい ファミとレドには月1、2度程度の割合で会いに行く 夢でよく会うのはソラとシシ ソラはいまだにおっとりしているし シシは5、6歩以内に近づいてこない (注)ウィリアム・スタイロンの小説。ナチスに連行されたポーランド人女性ソフィーは、 アウシュヴィッツで2人の子供のうち1人だけ助けてやると言われ、娘を手放してしまう。
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