すばやいキス 金銭と引き換えに手渡されてしまった (『まいどありがとうございまーす』なんていう大声とともに) 鉢植えのスズラン 家まで護送する破目になった 何だかちょっと疲れたな、一休みしよう スズランの蕾の順序でぼくも瞳の蕾を次々咲かせ てっぺんの蕾の向きにひょいっと飛んで軟着陸すると 多摩川土手の階段だった よいしょっ、座って 水の笑いに巻き込まれ ぼんやり薄笑いでも浮かべようか (耳を澄ます)や、あ、こんにちは 向こう岸の土手の階段にランドセル背負った女の子が一人 座ってたて笛を吹いてる おんなじ曲を繰り返し あれは確かフランスの古い曲で 「♪ こんにちは、とても、うすくすばやく、あたしの裾を、広がる いただけて触れて、とても、ありがとう あたしは、です、『月の光に』 今日はあたしのお誕生日、で、お命日、もうすぐ あたしのお誕生日は、です、たった一回しか、ですから あなたの御手で眠ってるその、すやすや白い御子の頬っぺた、キスさせてもらっていい? 考えます、その触感を、記念に、ここで生まれた」 「もちろんいいさ。スズランの頬っぺの柔らかい感触を 君が溶け込んでいく先の空気の襞の間に引きずっていくがいいよ」 ぼくはスズランの鉢を高くかざそうとしたが ぱちっと目を覚ましたスズラン、蕾を固く閉ざしながら 「お願い、近寄らないで。ぼくの上空をぎざぎざ歯の生えた胃袋が覆っている」 「何を言うんだ。薄くすばやく広がるあのおねえさんは さっき空気の中から生まれたばかりで、溶け入るように もうすぐまた空気の中に おねえさんでも何でもないものの中に 帰っていかなくてはならないんだぞ。頬っぺにキスさせてあげるくらいいいじゃないか」 「♪ あたしを、いいのに、怖がらなくても とてもすばやく、息の加減でプラスチックの筒の中に吹き込まれる、ぎざぎざ あたしが繰り返してる、体の裾の形変えるのを、だから きっと見えるのでしょう、歯のように食べようとする口の、御子には…」 女の子がふっと笛から口を離した 大きく背伸び 途端に「月の光に」は空気の襞に溶け込んで姿を消してしまう 「お昼寝タイムかな。でもこれが長引いたらおねえさんは 帰って来られなくなって自然消滅してしまうんだ そしたらスズラン、二人でお葬式しようね」 「ツジさん、まだわかってない。消えたおねえさん、口と胃袋でできてる キスされたらぼくの頬っぺた、ぎざぎざになるよ」 「いい加減にしないか! おねえさんはお前のことが気に入ってるだけ 仮に口が鋭い牙でいっぱいだとしてもどうしてお前に噛みつくことができるんだい? お前は重量と延長のある立派な静物なのにおねえさんはただの空気の振動なんだぞ」 「♪……すーっ、はぁ、生きてた、あたし、嬉しい、くれたんですね待ってて」 ほんと良かったね また女の子がたて笛を吹き始めた さっきより力強く 「どうしたことかと思ってやきもきしたよ。さあ、早く顔を向けてあげなさい」 「やだっ、何でわからないの、さっきより歯がぎっしり 今にもぎらって日光を反射してぼくの真上のお空をぎざぎざ食いちぎりそう」 スズランは何を恐がっているのだろう お天気も最高 その上こんなきれいな裾の広がるおねえさんに好かれて言うことなしだろうに するとぼくたちのすぐ横でずっとお昼寝していた大型トラックが 突然エンジンを唸らせはじめた 凄まじい轟音、重たい真っ黒い体がみるみる膨れ上がる 「月の光に」が押し潰されてしまうじゃないか! あっ、あれは何? 日光を反射する手前できらっと輝きつつ向こう岸から飛翔してくるもの 「月の光に」だ! 周囲を圧倒する大きさに膨れ上がっていたトラックの轟音の隙間を縫って旋回 挨拶してるのかな? いや違う ふっと轟音の陰に隠れ 次の瞬間 きらっと先の尖った頭を突き出す 内から外から 轟音の体を貫いてぷすっぷすっ小さな穴を幾つも開けているんだ 轟音は巨体すぎて小回りが利かず「月の光に」に太刀打ちできない 弱ってきたトラックの轟音、裏返しになり悲鳴をあげる 「〜助けて、誰か」 「♪ 観念して食べられてしまいなさい、あたしに、おとなしく あたし、広がりますうすい体でとてもすばやく、ですから とても空きます、おなかが あたしのすばやい振動は、捕まえます、大きなにぶい振動を、あなたの あたしの食べ物は、です、振動なの さあ包まれてしまいなさい、おとなしく、あたしのうすく広がる胃袋の中に 眠ることを許します、あたしの胃袋の中で、いつまでも」 「〜眠るの恐い、眠ったら俺、俺でなくなってしまう」 トラックは走り去った それにつれ轟音もみるみる薄まっていく 「月の光に」はそしらぬ振り、うすい体で走り続けている その途切れがちな体の薄い幅の間に 走り去ったトラックの轟音が囚われているのがわかる 「〜出してここから…もうすぐ俺は俺でなくなる…」 「♪ なくなってしまいなさい、なくなってしまいなさい 『俺』が『俺』であることを さあ剥いてあげます、歯を、押し潰してあげます噛み砕いてあげます 『俺』は、あたしのうすく広がる胃袋の中で、粉になって塵になって なくなってしまいなさい、なくなってしまいなさい 気づくことでしょうきっと あたしと一緒に、うすくすばやく広がる、いつのまにか『俺』でない『俺』を」 もう轟音がどこにいるのかまるでわからない、薄くすばやく走るものがいるだけだ 夕暮れが近寄ってきて風がそよそよ吹き始めた 「『月の光に』の奴め、音を餌食にしていたのか お前を渡しはしないさ。すぐにでも家に帰ろう」 「ぼくのすぐ真上!」 「大丈夫さ、お前は音なんか立てないじゃないか」 そよそよ そよそよ 次第に風の足が速くなっている 「♪さあさ、差し出しなさい、頬っぺたを、御子の柔らかな、そして全身を 駆け上って駆け下りて、この広い空間を、そして消えましょう、あたしになって」 ひゅーっ いきなり、少しだけほんのちょっとだけ、強い風が吹いた スズランの蕾と葉が擦れ合ってかすかぁーに さぁわぁ 音をたてる 「♪やっとなってくれましたねあたしと同じ体質に、さあ、あげますキスして」 ぼくにもはっきり見えた きらっきらっ輝く歯の連なりが微かに音と化したスズランを捕らえるのを 「ぼくは『あたし』に! うすいすばやい、もうだめー」 ふっと たて笛の音が止む(向こう岸で女の子が背伸びをしている) 一瞬にして空気の襞の間に掻き消える「月の光に」(たて笛を赤いランドセルにしまった) 「おい、しっかりしろ! 薄く広がるおねえさんはもういないぞ」 返事がない スズランも一緒に掻き消えてしまったのだ 「こんな小さな音も逃さないとは! もっと早くに『月の光に』の正体に気がついていれば… でもね、スズラン。今の君には伝わるかわからないけど言っておく ぼくがいつかまた『月の光に』の前を佇むことがあったら 『月の光に』の『あたし』の中で眠り続ける君をきっと起こしてあげる きっとさ。今日のところは君の延長と重量だけ持って帰って君を忍ぶことにするよ」 |