解放
やっかいなことに突然ぼくは
視線の中心に捕らえられることになった
10メートル程離れた交差点の前から
黒いメガネをかけたおじさんが右手を肩の辺で上げ下げし
「すいません」と叫びながら近づいてくるんだ
おじさんは10メートル先からぼくを獲物のように捕捉した
網も投げ縄も使わない、呪文のように文句を一言唱えただけで、だ
白い息をはっはっと吐き
膝を結構深く折り曲げて
まんまと視界に収めたぼくめがけてほとんど小走りで近づいてくる
ぼくはもちろん逃げることができる
おじさんはずんぐり太っていてその上重そうなカバンまで抱えている
ひどいがに股の走りは効率が悪そうだ
だが、ぼくにはおじさんの視線の中心から逃れる理由がない
理由なんてあってもなくても逃げたければ逃げればいいのだが
視線の中心に絡められて動揺し「逃れる理由がない」と思ってしまったからには
逃げるという選択肢はもうないんだ
ぼくは愚かにも自分で自分の自由を奪ってしまった
ぼくの足はほら、動かないじゃないか
わずかな間だが手持ち無沙汰なので下を向いていると
夕方の赤い陽射しに後押しされたおじさんの長い影が
ぼくの影に突き刺さるのが見えた
「ちょっとお尋ねしますが、区役所へは右行くんでしょうか、左行くんでしょうか?」
「えーっと、左です。まっすぐ50メートルくらい行ってすぐですよ」
「ありがとう、すいません」
おじさんはくるっと背を向けてぼくを視線から解放すると
「えっさ、えっさ」と掛け声までかけながら
また小走りで交差点の方向に戻っていく
今日は突然、視線の中心に立たされて、解放された
赤い陽射しの中に消えていくおじさんの姿を見送りながら
小さな小さな、小さな緊張が
まだ心臓の辺りに小波立っているのが、わかっている
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