女王様を救った蛾
シルエットで浮かび上がる人の姿を見た
深夜ビデオを返しに行った帰りの
人気のない商店街の路上
遠くからぱぁーっと射してきたヘッドライトが
それまで気づかなかった人の存在を突然指し示したのだ
その長身の人影は
<人>よりも<影>と呼ぶにふさわしく
まるでヘッドライドの創造物であるかのようだ
ぼくは昔々読んだお話をぼんやり思い出していた
世界の不思議な話を集めた子供向けの本の中の一編だ
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女王様を救った蛾 ――あらすじは不正確です
ビクトリア女王が汽車に乗っていたある霧の晩のことです。
汽車の運転手が前方に奇妙なものを発見しました。両手を振り回し
ている男の姿です。何か危険があることを教えてくれているのかも
しれない、そう考えた車掌は汽車を停車させ、降りて辺りを見回り
ました。するとどうでしょう! 洪水で線路が押し流されているで
はありませんか。あのまま進んでいたら列車が転覆するところでし
た。車掌は厚く礼を言おうと手を振って危険を教えてくれた男を捜
しましたが見つかりません。あきらめて汽車に戻ってライトをつけ
ると、また、あの両手を振っている男の姿が見えました。何と男の
姿とは、汽車のライトに張り付いていた蛾が霧に反射してそう見え
たものだったのです。その蛾は女王様を救った蛾として、今も博物
館に飾られています。 ――終わり。
(どなたか、このお話がどの本の中に入っていたか教えてくださいね)
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真夜中の道を柔らかく上下しながら歩いている男(多分)は
ぼくにどんな危険を指し示そうとしているのか?
車が通り過ぎると同時に
人影もまた暗闇に沈む
女王様を救った蛾が結局は殺されて保存処置を施されたように
ヘッドライトの光で浮かび上がった長身の男は
車が通り過ぎた後の闇に抹消されて
ぼくの記憶の中に保存される
何十年前かに読んですっかり忘れ果てていた物語が不意に蘇ったように
ぼくはいつしかこの長身の男が歩く姿を
一編の物語として
突然再生させることだろう
ぼくは男の近親者の誰もが知らない彼のこの姿を
知っている
男が死に、男の近親者が死に絶えても
ぼくが死なない限り、男の姿は死ぬことができない
できない、できない、できないんだぁ
……っと
博物館の中で保管されている蛾って今どうしてるかな?
いつか会いに行きたい
こうしてまだ夜道を歩き続けているぼくも、どこかで
目撃され
保管され
再生される、に違いない
その時、ぼくに会いたいと考えてくれる誰かに
ぼくは会うことができるのだろうか?
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